悲しみをどうにかするすべ

母方の祖母が亡くなった。2020年2月のことである。

 

月曜日の朝出勤してすぐに、職場に母から電話がかかってきた。

わたしが「どうしたん?」と一言訊いただけで母はわっと泣き出してしまい、あまり会話にならなかったが、とりあえず「祖母の病状が悪くなり、医者からも親戚に連絡したほうがよいと言われた」ということだけは分かった。

次の週末は母が東京に来て一緒に舞台を観に行く予定だったのだが、チケットはキャンセルした。仕事を放り出して自宅に戻り、荷物をスーツケースに詰め込んでのぞみ新幹線に飛び乗った。

不謹慎かもしれない、と思いながらも、結婚時に母が買ってくれた喪服も連れて行った。

 

午後に病室に着いたわたしに、母がまたわっと泣いて抱きついた。祖母は薄く目を開けて「いつ来たん」とかすれた声で言った。人工呼吸器をつけていた。わたしは泣きながら「会いたくなったから帰ってきちゃった」と言った。

免疫系の病にうまく薬が効かず、先週からだんだん食も細くなり、医者の判断としては「今晩が山場かもしれないし、今週いっぱい頑張れるかもしれない、本人の体力次第」とのことだった。

夕方、子どもと孫が揃った。それから、祖母はずっと痛がっていたのでモルヒネを投与することになった。祖父が、「もう子どもと孫と最期の挨拶は済んだから」と。

わたしは、済ませられていただろうか。

 

火曜日の夕方、モルヒネで眠っていた祖母はそのまますうっと息を引き取った。呼吸と心臓が止まると、こんなにも人間の皮膚は青白くなるんだと驚いた。

祖母の子どもたち4人全員と、孫であるわたしと、姪ひとりと、それから祖父に看取られた最期だった。

祖父は「なんでわしを置いていくんや、置いていかれたらどうしたらいいか分からん」と泣いていた。気丈で、いつもにこにこして、優しい祖父のそんな姿を初めて見た。わたしはこれからの祖父が心配でならない。

みんなで死化粧をした。

 

通夜も葬式も出棺も、ずっとわたしは泣いていた。わたしが泣く度に母が「あかん、また泣き出した」と言って慰め係として夫を呼んだ。わたしはわたしで、伯母を慰めていた。みんな誰かに慰められ、慰めていた。

祖母の遺影はわたしの結婚式のときの集合写真から切り取った。祖母はわたしの結婚式のときに着ていた黒地にゴールドの洋服を着て眠っていた。わたしは結婚のときに母に持たされた喪服を着ていた。東京から飛んでくる際にスーツケースに詰め込んだ嫁入り道具を、こんなに早く着ることになるとは思っていなかった。歳をとったら太るからと言って2サイズくらい大きめのものを選んだのに。

みんな「結婚式がおばあちゃんの最後の晴れ舞台やったなあ」と言った。「孫の結婚式に出るからそれまでに膝関節の手術をしてくれ」と言って手術日程を決めていた。

父がドタキャンするなど不幸もあった結婚式だが、挙げて良かった。

 

骨壺には「祖母が結婚前に曾祖母から贈られた指輪」と「祖父が初めて贈った指輪」を一緒に入れた。

祖母にも娘時代があり、祖父との結婚生活があり、子どもたちとの生活があったことを考えた。わたしの記憶の中では祖母は最初から祖母だったから。

それから名残惜しい気持ちで、わたしと夫は自宅に帰った。しばらくは「悲しい」と言ってすぐ泣き出す日々だった。いまも思い出すとすぐに涙が出る。

 

祖母がいないことが今でもよく分からない。

自分の大切なひとがこの世からいなくなることが初めてではないのに、いまだに悲しみをどうにかするすべを知らない。一生知らないままわたし自身この世からいなくなる日が来てしまう気がする。